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昨年読んだ新書まとめ [Book - Public]

 まとめというほどでもないが、昨年読んでみた新書ばかり、この際並べて記事に起こしてみる。
 そうしないといつまで経っても記事にしなさそうなのでw

「恐怖の哲学―ホラーで人間を読む」戸田山和久著(NHK出版新書刊)

◆内容紹介
テーマはホラー、前代未聞の哲学入門 恐怖は知性だ!
なぜわれわれはかくも多彩なものを恐れるのか?ときに恐怖と笑いが同居するのはなぜか?そもそもなせわれわれは恐れるのか?人間存在のフクザツさを読み解くのに格好の素材がホラーだ。おなじみのホラー映画を鮮やかに分析し、感情の哲学から心理学、脳科学まで多様な知を縦横無尽に駆使、キョーフの正体に迫る。めくるめく読書体験、眠れぬ夜を保証するぜ!
―(表紙見返しより)

恐怖は、怖さ特有の「怖い感じ」をもっている。この怖い感じゆえに、恐怖が御楽になる。それがホラーだ。恐怖を感じる生きものはいろいろいるだろうが、恐怖を楽しむことができるというのは、きわめて人間的な事実じゃないだろうか。なぜ、どのようにして、人は恐怖を楽しめるのだろうか。……このように、恐怖という情動については、考えてみるべき謎がまだまだたくさんある。そして、ホラーというジャンルの存在は、その謎をさらに多様に、さらに深くする。そこに問いがある以上、考えてみますよ、というのが哲学なので、考えちゃいましょう。―「まえがき」より

 人はなぜ「恐怖」という情動を持つのか、
 「恐怖」はなぜ“怖い”必要があるのか、
 にもかかわらず、人はなぜ「恐怖」を―エンタメの枠内等で―愉しむことができるのか、
 作りごと、フィクションとわかっているのになぜ“怖い”のか、
 人はなぜ多種多様なものを怖がることができるのか、
 作りごと、フィクションとわかっているのになぜ“怖い”のか、
 人はなぜ多種多様なものを怖がることができるのか、

……といった命題を考察し解き進めていく一冊。新書なのに450㌻近くあるかなりのボリューム。軽妙な文体で書かれてはいるが、現代哲学的な考察がそのかなりの部分を占めるので、書かれた語句の意味するところが具体的にイメージがし辛いために、門外漢な自分には今一つ入ってこないような。
 本当はまえがきから第1章……と順に読み進めていくことが正しいのだろうし、そう読んでいくことで理解が深まるのだろうと思うが、(イメージのし難さ故に)けっこう難解ではあるし、目次を見ても逆にピンとこない。なので巻末に「本書のまとめ」(p428-429)があるので、そこから逆引き的に興味を持った項目から読んでみるのも一つの手かもしれない。
 1つだけネタバレをするなら、

ホラーを楽しめるのは、怖さを上回る何かがあるからというより、怖さそのものが快楽をもたらすからだ。(→第7章) 

ということらしい。
 そうか。やっぱり「怖い話」を読むことって、快楽なんだw 

「宗教消滅 資本主義は宗教と心中する」島田裕巳著(SB新書刊)

◆内容紹介
かつて隆盛を誇った新興宗教は、入信者を減らし、衰退の一途をたどっている。
著者は、毎年恒例のPL学園の花火が「地味に」なっていることから、日本の新興宗教の衰退を察知。
日本の新興宗教の衰退は、なにを意味するのか――。
本書は、世界と日本の宗教が衰退している現象を読み解きながら、それを経済・資本主義とからめて宗教の未来を予測する。共同体を解体しつくした資本主義は、宗教さえも解体し、どこへ行きつくか。拠り所をなくした人はどうなっていくのか。ポスト資本主義の社会を「宗教」から読み解く野心的な1冊。

イスラム国、
無縁社会、
ゼロ葬―
宗教崩壊は、他人事ではない!

・仏教―真言宗の本山である高野山で参拝者が4割減!
・カトリック―フランスでは空っぽの教会が次々とサーカスに売却
・プロテスタント―韓国で現世利益だけを訴える偽キリスト教が跋扈
・イスラム教―人口増による世俗化で原理主義との対立が激化
・創価学会―婦人部の会員が高齢化し集票能力に翳り
・幸福の科学―若い世代に受け継がれずに90年代の信者が高齢化
アメリカ―広がるのは病気治しの奇跡信仰ばかり
中国―バチカン非公認のカトリックを政府が弾圧

 ……と、帯書きの紹介だけでこんな長くなってしまった(-_-;)
 恐らくはここ数年来のISの台頭や相次ぐ宗教―多くはイスラム原理主義派による―テロが、この本の執筆のきっかけでもあったんだろうが、現代の日本、のみならず世界の現状を、宗教を切り口に考察した書といえるか。
 少し前に、10年前(2007年)に刊行された同じく島田氏の「日本の10大新宗教」(幻冬舎新書)を読了していたので、その後の10年弱で日本、そして世界においての宗教的な状況が大きく変わってきているということはわかる。
 筆者は巻末で、世界的な宗教の世俗化、無宗教化、イスラム教の拡大とその後に来る世俗化(イスラム教は本来世俗一体の宗教ではあるが)による形骸化、そして高度資本主義社会において共同体が解体されていき、ひいては宗教どころか社会そのものが存立していかなくなる―と記している。
 実際、資本主義と宗教というものは人類史において密接に関わってきたわけで、日本において戦後、数々の新興宗教が出現、発展したことも、高度経済成長と切り離すことはできないのだが……。確かに、日本における新興宗教の衰退は、若年層の取り込みが出来ておらず団体自体が高齢化してしまっていることが主因なのだろうが、ではなぜ若い世代は”神””信仰”を求めないのか、その辺りももう少し掘り下げて欲しかったような。 

 タイトルや表紙の文言に大仰な感はあるものの、宗教という切り口で現代社会を通覧する上ではそれなりに面白い。 

「キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』」F・W・ニーチェ著/適菜収訳(講談社+α新書刊)

◆内容紹介
名著、現代に復活。
世界を滅ぼす一神教の恐怖!
世界を戦火に巻き込むキリスト教原理主義者=ブッシュ、アメリカの危険を百年前に喝破。

被告・キリスト教は有罪です。私はキリスト教に対して、これまで告訴人が口にしたすべての告訴のうちで、もっとも恐るべき告訴をします。どんな腐敗でも、キリスト教以上に腐っているものはないからです。キリスト教は、周囲のあらゆるものを腐らせます。あらゆる価値から無価値を、あらゆる真理からウソを、あらゆる正直さから卑怯な心をでっちあげます。それでもまだ、キリスト教会の「人道主義的」な祝福について語りたいなら、もう勝手にしろとしか言えません。キリスト教会は、人々の弱みにつけこんで、生き長らえてきました。それどころか、自分たちの組織を永遠化するために、不幸を作ってきたのです。

●キリスト教が世界をダメにする
●仏教の素晴らしいところ
●イエスは単なるアナーキスト
●イエスとキリスト教は無関係
●オカルト本『新約聖書』の暴言集
●キリスト教が戦争を招く理由
●キリスト教は女をバカにしている
●キリスト教が破壊したローマ帝国
●十字軍は海賊
●ルネサンスは反キリスト教運動

 哲学界の巨人、ニーチェ晩年の著作「アンチクリスト」を、平易な現代語に訳した一冊(訳者自身が加筆省略した箇所もあると述べているので、いわゆる"超訳"ともいえるのかも)。
 ニーチェは全編を通してキリスト教を、キリスト教主義を、当時のヨーロッパ社会を支配していたキリスト教的価値体系をこれでもかとこき下ろす(但しニーチェはキリスト教を批判しており、イエス=キリストという人物は非難するどころか称賛している)。
 刊行は1895年、つまり19世紀末のことだが、当時よくこんな本を出版したなぁ、というのが第一印象(ちなみにニーチェがこの本を執筆したのは1888年。膨大な原稿を一気呵成に執筆した後、翌年精神錯乱を発症。母親と妹の介護で11年生き、1900年没)。が、読み進めていくうち、キリスト教というものが実は「戦いを必要とする宗教」である、ということが次第にわかってくる。

 表紙にはニーチェの写真と共に、9・11テロで炎上するWTCビルの写真が使われている。この新書自体の刊行が'05年だから、あの大事件が出版の契機にもなっていたのだろうが……。
 9・11の同時多発テロ、さらには原理主義者、あるいはISによるテロ等でイスラム教だけが何か一方的に危険視されているところがあるが、それではキリスト教は善なのか。宗教的価値体系としてはどちらにも属さぬ日本人として、それらをどう捉えるべきなのか―。ニーチェは「自分の視野は200年後まで見通す」と言ったそうだが、確かに今なお古くなっていないどころか、現代こそ読まれるべき著作なのかもしれない。  

 ……訳者自身に対してはその思想面などで首肯しかねるというか、ちょっと……うーん、って感じはあるのだけれど(-_-;) 

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「世にも奇妙な人体実験の歴史」 [Book - Public]

 自らの理論を信じて自分の肉体で危険な実験を行い、今日の医学、科学の礎を築いた科学者たちによる、驚異のエピソード。

「世にも奇妙な人体実験の歴史」 T・ノートン著(文春文庫刊)

◆内容紹介(裏表紙から)
性病、毒ガス、寄生虫。麻酔薬、ペスト、放射線……。人類への脅威を解明するため、偉大な科学者たちは己の肉体を犠牲に果敢すぎる人体実験に挑んでいた! 梅毒患者の膿を「自分」に塗布、コレラ菌入りの水を飲み干す、カテーテルを自らの心臓に通す―。マッド・サイエンティストの奇想天外、抱腹絶倒の物語。解説・仲野徹 

 書店で平積みされた本書を見て、「人体実験の歴史」というタイトル、そして帯に大書された”マッド・サイエンティストの世界へようこそ!”という文字に、SF作品に数多登場する―研究のためなら他者の命など何とも思わぬ、いわゆる"マッド・サイエンティスト"の異様な話ばかりかと想像してしまった。

 確かに中盤まではそういった科学者や医師、さらには金儲けのために胡散臭いインチキをやらかした輩も登場するし、また壊血病ビタミンC不足によって19世紀までの船乗りが悩まされた疾患)の原因となっている、食物に含まれる不可欠な「何か」を探るため実験台となったのは孤児院の子ども達だった―という(第9章「偏食は命取り―ビタミン」)。この辺りは当時の常識や階級意識、現在とは大きく異なる社会的な倫理観等も関連してくるのだろうが。
 但し、第3章「インチキ薬から夢の新薬まで―薬」で記された、独テジェネロ社開発の新薬臨床実験によって6人の犠牲者(生存はしているが―)を出した'06年の事件は、今なお臨床試験という名目で人体実験が行われることを求められる新薬開発の実情と、そこに含む危うさを示しているように感じられる。

 だが、本書に書かれたエピソードの大半を占めるのは、研究のために文字通り自分の体を実験台にした、あるいは危険極まりない領域へ自ら踏み込んでいった医師や科学者たちによるもの。
「麻酔は何が有効なのか」、「放射線は人体に如何なる影響を及ぼすのか」、「なぜ違う血液型を輸血しては(基本的に)ダメなのか」、「海に潜ったらなぜ急に浮かび上がってはいけないのか」etc……現代では常識となっているような事柄はどれも、彼ら自らが身体を張った研究によって解明され、確立されたものなのだ。
 無論、その「研究のため」という目的は往々にして、病気や苦痛に苦しむ患者、人類、あるいは国家のためという高尚なものというよりは、研究者本人の―傍から見れば常軌を逸していると思えるほどの―強烈な知的好奇心からくるものなのだが。  

 終盤の第12章「爆発に身をさらし続けた博士―爆弾と疥癬」以降、
「毒ガスと潜水艦(敵が用いる毒ガスへの対策のため、研究者は毒ガス中毒になりながらガスマスクを作った)
「漂流(海難者が生き延びるためには、海水を飲んでも大丈夫なのか)
「サメ(海難者にとって、飢餓や乾きと同様人食いザメも恐ろしい存在だった)
「深海(潜水病対策の研究は、やがて深海への挑戦へとつながっていく)
「成層圏と超音速(深海へ挑んだO・ピカールは、気球で成層圏へも挑んでいた)
と続くが、この辺りは科学史というよりはもはや、冒険譚を読んでいるような。

 彼らのような、優れた知性、蛮勇と言えなくもない勇気、そして何よりも並外れた好奇心の持ち主が、現代科学の礎を築いてきたことは間違いない。彼らが単なるマゾヒストでも自殺志願者でもなかったことは

―多くの自己実験者がほとんど考えられないような極限状態を体験したが、自分の仕事にはそれだけの価値があると信じていたが故に、彼らは実験に伴う危険にも不愉快さにも淡々と耐えた。それらの多くがきわめて高度な研究であったことは、ノーベル賞受賞者に占める自己実験者の割合の高さによって証明されている。 

という「あとがき」の一文でもわかる。

 言ってみれば古今の科学史のこぼれ話を蒐集した本と言えなくもないのだが、ここまで集まると凄絶ですらある。   

 

 大阪大医学部教授、仲野徹氏による特別集中講義「人体実験学特論」という体裁の解説も、内容をコンパクトかつ要領よく紹介する内容になっていて秀逸。
 書店で本書を見かけたら、まず解説から目を通してみるといいかもしれない。  

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「知れば恐ろしい 日本人の風習」 [Book - Public]

 日本人にとって馴染み深い風習やタブー、季節の行事、さらには子供の遊びや昔話のルーツを検証し、我々の先祖がそれらに込めた「”恐怖”に対する智慧」を探っていく。

◎「知れば恐ろしい 日本人の風習 
  :『夜に口笛を吹いてはならない』の本当の理由とは」
         千葉公慈著(河出文庫刊)

◆内容紹介
なぜ、夜に爪を切ると「親の死に目にあえない」と言われるのか?「孟蘭盆会(お盆)」の起源は地獄での“逆さ吊り”の刑にあった―日本のしきたりや年中行事、わらべ唄の昔話には、どこか不気味なものや、ルーツに恐ろしい逸話が隠されているものが多い。それはいったいなぜなのか。風習に潜む恐怖の謎解きをしながら日本人のメンタリティを読み解く。 

 日本で昔からあるしきたりや習俗、季節の祭事、さらにはおなじみの昔話等々の起源を解説している。

 第1章は「しきたり・タブー」
 タイトルにある「夜に口笛を吹いてはならない」の理由について、悪霊や妖怪を呼び寄せる、蛇を呼び寄せる、人攫いが来る、親を早死にさせる等々の俗説や迷信をあげた上で、口笛がかつて「嘯(うそぶ)き」と表現されていたことから、神や精霊を招く力がある=神聖な行為だからこそ、濫りに行ってはならぬ戒めであった、とする。さらに曹洞宗の僧侶という著者の立場から、仏教の発遣供養(魂抜き)における作法の影響もあるのではないか、と推測する。 
「夜、爪を切ると親の死に目に会えない」は、戦国時代の城の不寝番が親が亡くなっても持ち場を離れられない重責であることから、不寝番即ち”夜詰め”と夜爪の語呂合わせから来た―という俗説、さらに日本人が古来から爪や髪を神聖視してきたことを「日本書紀」やその他の記述から紹介している。

 第2章は「年中行事」。年始の「獅子舞」に始まり「雛祭り」「花見」「七夕」「酉の市」等々を経て、暮れの「煤払い」まで、 一年の22の行事を取り上げている。「七草粥」や「端午の節句」、「盂蘭盆会(お盆)」といった馴染み深いものから、「事八日(2月と12月の8日)」「河童祭り」「重陽の節句(9月9日)」といった耳慣れない、あまりピンとこないものまであるが、それら悉くが日本人の死生観や信仰心、そして農耕文化と深く関わっていることに改めて気付かされる。
 ちなみに本書では「お彼岸」の行事の起源が、桓武天皇の弟で、政争に敗れ幽閉の末に憤死した早良親王の霊を鎮めるための行事だった、とある。その他「盂蘭盆会」や「節分」なども、昔自分が学んだものとは異なる点もあるが、その辺りは諸説あるうちの一つとして、著者の立場で取り上げているものなんだろう、と。

 第3章は「子供の遊び・わらべ歌」、第4章「昔話」を扱っている。
 子供の頃やった記憶のある「えんがちょ」のしぐさが、平家物語の絵巻にも描かれているというのは面白いが、この仕草自体の明確な起源は未だ不明とのこと。と言うより、これらの遊びやわらべ歌自体、様々な諸説、異説、解釈が存在するようで、はっきりしているのは「起源自体が明確でない」ということのようだ。
「昔話」では「かちかち山」、本邦に於ける人魚伝説「八百比丘尼」、日本のシンデレラともいうべき「米福粟福」、そして松谷みよ子の名作童話『龍の子太郎』の元となった民話「小泉小太郎」を紹介している。 

「知れば恐ろしい」というのは、今はどうということのない習わしであっても、かつては死やそれに付随するもの、それに対する当時の日本人の意識―即ち怖れ、あるいは畏れ―が反映されているということなのだが、今よりもはるかに死が身近であった時代では、むしろ当然のこととも考えられる。

 ところで、近年は昔話等から残酷な要素、死に関する事柄を一様に「子供の教育上よろしくない」と忌避し遠ざける流れが特に顕著なようだ。
 例えば昔話「かちかち山」にしても、かつては爺さんに捕えられたタヌキが婆さんを騙して縄を解かせた挙句、逆に杵で搗き殺してその肉を鍋に入れ(!)、婆さんに化けて何食わぬ顔でそれを爺さんに食べさせ(!!)、「爺さんが喰ったのはタヌキ汁じゃなくババア汁、流しの下の骨を見ろ~」と嘲笑いながら逃げていく―という、悪趣味ホラーもかくやの場面があったはず(自分が読んだのはタヌキが婆さんを殺して逃げるものだった)だが、近年では婆さんは殺されずケガで済み、懲らしめられたタヌキが反省し謝って大団円……なんてかなりヌルいマイルドな内容に改変されているのだとか。
 昔話には勧善懲悪、善因善果悪因悪果、社会の厳しさやモラルというものを、お話というフォーマットで教育するという機能も有していたと考えれば、子供は「ルールを破り悪事を働けば、恐ろしい結果を招く」ということを昔話から学び、残酷譚によって刷り込まれた”恐怖”が、その後の自らの行為のブレーキとしても働いていたのではないかと思う。

 かつては三世代同居の家も多く、年寄りが自宅で家族に看取られて死ぬ、つまり子供といえど日常の中で「死」というものに直面することも、数十年前ですらそう珍しくないことだった。
 現代でもTVやネット上のニュースで毎日のように様々な「死」が報じられてはいるが、それは媒体を介してのものであって、子供心にそれを実感することはそう多くないのではないか。大半の人間は病院で死を迎え、身内でなければそれに立ち会う機会もほとんどない。
 子供に残酷な話をどんどん聞かせて教育しろ、坊主による地獄極楽の説話を聞かせろ、なんて極論を言うつもりは毛頭ないけれども、大人の思い込みによる毒抜きによってそういったものを見えなくさせてしまうことは、幼い頃から死というものへの畏れ(恐れでもあるが)、ひいては命の脆さ、尊さを学ぶ機会を奪ってしまっているんじゃないか、と思わざるを得ない。 

 ーMemento mori(死を記憶せよ)
 この警句は、己の慢心や油断への戒めであると同時に、他者の生命の重さを思え、という意味も含まれているのではないかと勝手ながら思うのだ。 

 昨今はこれら年中行事の大半は様々な商業主義、あるいは胡散臭いスピリチュアル系のビジネスと結び付いて、由来も意味もへったくれも失われつつあるようだが……。  

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「怖いクラシック」 [Book - Public]

 8つの「恐怖」のキーワードを切り口に、偉大な作曲家とその作品、西洋音楽史を概観する。 

「怖いクラシック中川右介(NHK出版新書刊)

◆内容紹介(カバー見返しより)
クラシック音楽は、いつかららか「癒しの音楽」と喧伝されるようになったが、その王道は「怖い音楽」に他ならない。父、死、神、孤独、戦争、国家権力―。名だたる大音楽家たちは、いかにこれらの「恐怖」と格闘し、稀代の名曲を作り上げてきたのか。モーツァルトからショスタコーヴィチまで、「恐怖」をキーワードに辿る西洋音楽史の二〇〇余年。

 ホラー映画をはじめとした映像作品において、恐怖感を盛り上げる上でのBGMの重要性は今更触れるまでもない。映像ばかりでなく、曲単体でも聴き手に何らかの"怖い"イメージを喚起させ、「怖い」音楽だと思わせるものも、世の中には数多くある。
 あるいは、何らかの恐ろしい、強烈な印象がある曲と結び付いてしまい、曲を聴くたびにその記憶が甦る―ということもある。これはかなり限定的な個人体験に依るのだろうが。

 20数年前、大学の生協辺りで購入したクラシックのコンピレーションCDが手元にある。クラシック曲を様々なテーマ別に揃えたシリ-ズの1枚で、「グレイテスト・ヒッツ1200 死者もよみがえる…?」なるタイトル。「おどろおどろしい曲ばかり選んでしまった肝だめし的アルバム」とのこと。
 バッハ「トッカータとフーガ ニ短調」の管弦楽Ver.に始まり、サン=サーンス「死の舞踏」、ムソルグスキー「はげ山の一夜」、ベルリオーズ「幻想交響曲~断頭台への行進」、リスト「メフィスト・ワルツ」などが収録されているが、殊更おどろおどろしい、「怖い」というわけでもなし(「はげ山の一夜」だけは、ゴヤのこの絵を常にイメージしてしまうが)。

 本書も、書店の店頭で一見した際、そういった曲を採り上げたものかとも思ったが、実際に手に取ってめくってみると、むしろ中野京子女史による「怖い絵」シリーズのクラシック版のような本かと気付く(実際、本書がそのシリーズから着想を得たことを、著者が「まえがき」で述べていた)。 

  • はじめに―美は「恐怖」に宿る
  • 第一の恐怖 父―モーツァルトによる「心地よくない音楽」の誕生
  • 第二の恐怖 自然―ベートーヴェンによる「風景の発見」
  • 第三の恐怖 狂気―ベルリオーズが挑んだ「内面の音楽化」
  • 第四の恐怖 死―ショパンが確立した「死のイメージ」
  • 第五の恐怖 神―ヴェルディが完成した「宗教のコンテンツ化」
  • 第六の恐怖 孤独―ラフマニノフとマーラーの「抽象的な恐怖」
  • 第七の恐怖 戦争―ヴォーン=ウイリアムズの「象徴の音楽」
  • 第八の恐怖 国家権力―ショスタコーヴィチの「隠喩としての音楽」

 モーツァルトで始まり、掉尾を飾るショスタコーヴィチまで、父、自然、狂気、死、神、孤独、戦争、国家権力という8つの「怖い」キーワードを切り口に、偉大な作曲家とその作品群、各々の時代背景を読み解いていく。

 確かに、本書内で採り上げられた曲を見ると、ベルリオーズの「幻想交響曲」を除けば、前述のCDに収録されたような曲はほぼ登場しない。「怖い怖い」といいながらも、ホラー映画の劇伴のようなショッカー的音楽―著者は”インタープンクト”と称している―を紹介しているのではなく、あくまでも作曲家たち中心に、当時の文化風俗も併せて西洋音楽史を概観しているスタンス。さらには、交響曲やオペラ、レクイエムといったジャンル別の略史としてもまとめられている。
 その意味では本書のタイトルは虚仮おどしと見えなくもないが、「クラシック音楽=癒し」という、巷の安直(かつ誤った)な印象を覆す、大作曲家たちが対峙し格闘してきた"恐怖"こそが音楽史を作り上げてきた―という、著者の主張を端的に表す意味では、このタイトルになるのだろう。

 第七、八章で書かれているヴォーン=ウィリアムズや、ショスタコーヴィチの交響曲第5番以外は未聴なので、Youtube辺りでさわりだけ聴いて見ながら、その章を再読してみようか……な。 


 ちなみに、Amazonでの本書のレビューを見てみると、曲そのものが”怖い”と思わせられるようなクラシックのCDもいくつかあるらしい。 収録曲を検索してみると……ちょっと興味あったり、なかったり。 

 

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「京都ぎらい」 [Book - Public]

 洛外に生まれ育った”京都人”による、新たな京都論にして、日本文化論。 

「京都ぎらい」 井上章一著(朝日新書刊) 

◆内容紹介
「ぶぶ漬け」の話は出てきませんが……千年の古都のいやらしさ、全部書く
「ええか君、嵯峨は京都とちがうんやで……」
 さげすまれてきた「洛外人」が、京都人のえらそうな腹のうちを“暴露”

 あなたが旅情を覚える古都のたたずまいに、じっと目を凝らせば……。気づいていながら誰もあえて書こうとしなかった数々の事実によって、京都人のおそろしい一面が鮮やかに浮かんでくるにちがいない。洛外に生まれ育った著者だから表現しうる京都の街によどむ底知れぬ沼気(しょうき)。洛中千年の「花」「毒」を見定める新・京都論である。

 昨日(2/10)発表された「新書大賞2016」(中央公論新社主催)で、大賞を受賞した本書。 昨年9月に刊行されて話題になっていたのを見かけ、11月頃に書店で手に取った時には4刷になっていたが、現在で9刷、10万部を突破しているのだとか。
 これも感想を書きかけのまま[下書き保存]になっていたものだったので、これを機会にUpしてみる。

 私事、昨年9月末に仕事で京都に出向いたことがあった。
 今回は初めて嵐山、嵯峨野方面へ行ったのだが、タイトなスケジュール故観光する時間はほとんど取れなかったが、それでも仕事先の方の運転する車で移動しながら、旧き佳き景観の残る嵯峨野の案内をしてもらうことができた。
 関東の人間からすれば、嵐山も嵯峨も釈迦堂も、それに太秦だって同じ”京都市内”であり、宇治ですら京都(宇治市は京都の南)でしょうに……という認識なのだが、本書によればそれは大きな勘違いらしい。
 右京区の花園に生まれ、嵯峨で育ち、現在は宇治在住の著者。行政上の区分(右京区は京都市)から言っても、またこちらの勝手なイメージからしても「京都市出身」の「京都人」と呼んで何の差支えもないと思いきや―

 だが、京都の街中、洛中とよばれるところでくらす人々なら、すぐに了解するだろう。井上は嵯峨そだちだったのか、京都の人じゃあなかったんだな、と。
 行政上、京都市にはいっていても、洛中の人々からは、京都と見做されない地域がある。街をとりまく周辺部、いわゆる洛外の地は、京都あつかいをされてこなかった。私をはぐくんでくれた嵯峨も、京都をかこむ西郊に位置している。ひらたく言えば、田舎だとされてきた地域のひとつなのである。
 自分は京都市に生まれそだったと、私は屈託なく言いきることができない。(p15)

……というのである。
 著者が本書を著すきっかけともなった、プロレス会場での一幕(京都市内での興行において、宇治出身の悪役レスラーが「京都へ凱旋した」意のマイクアピールをしたところ、「宇治のくせに、京都というな」といった罵声が飛んだこと)や、洛内に住む適齢期をやや過ぎた未婚女性が、とうとう山科の男性から縁談があったとこぼすエピソード(つまり経済的条件ではなく、地理的条件が落ちたと嘆いている)など、洛中人の洛外に対する優越意識、”京都人の中華思想”を綴っている。この、山科から縁談があった、もうかんにんしてやと嘆く女性に対して、「山科の何があかんのですか」と問いただす著者に、

―そやかて、山科なんかいったら、東山が西のほうに見えてしまうやないの(p29)

との彼女の答えは、そこまで明確に彼我の位置付けを意識するのか、といささか引いてしまうのだが。
 と思うと、著者は返す刀で京都―洛中の人間を付け上がらせたのは、観光やグルメ特集で京都をもてはやす東京のメディア人であるとし、さらに京都をありがたがらない大阪のメディアを褒める。

―統計的には語れないが、私の実感でも、京都をみくびる度合いは、大阪がいちばん強い。(p40) 

 そして章末、著者は嵯峨や宇治よりもさらに外縁部の亀岡、城陽に対する優越感を吐露する。洛中の人間から受けた偏見や嘲りのようなもの―差別意識を、今度はさらに外側の地に対して向ける側となっていた、というのである。そして、その原因は、

―私が亀岡や城陽を低く見るのは、京都の近くでくらしつづけたせいである。いつのまにか、京都人たちの中華思想に、汚染されてしまった。その華夷秩序を、反発はしながらもうけいれるにいたっている。
 その一点で、私は自分にも京都をにくむ権利があると、考える。私をみょうな差別者にしてしまったのは、京都である。
(p43-44) 

と捻くれたユーモアとも皮肉ともとれる言葉を述べている。
 このような内容が「一 洛外に生きる」であるが、続く「二 お坊さんと舞子さん」では、現在の京都の花街を支えている(顧客として)のは往年の呉服商や映画、芸能関係ではなく僧侶である―と記し、「三 仏教のある側面」では、古都税の一件を採り上げて、京都の寺社とカネについて触れている。
「四 歴史のなかから、見えること」は、京都の地から見た明治維新に始まり、江戸幕府と京都の関係性、五山の送り火、さらに”銀座”の原点など、歴史的な側面からの記述となる。これら二~四章は、少々趣の異なる京都にまつわるエッセーといったところか。 

 そして「五 平安京の副都心」において、話題は南北朝、さらには平安初期の嵯峨天皇にまで遡り、故郷たる嵯峨礼賛、もしも南朝が勝利していたならば嵯峨は副都心となっていたやも知れぬ―と記す。このあたりは判官贔屓から来るのか、洛中人から田舎よばわりされた故郷への愛着を示すものかと思ったが……章末、話が政治的イデオロギーの話題になって少々キナ臭くなる、というかやにわに赤みを帯びてくる。あぁ、そういうことね、と。
 その件を除けば、これも長い歴史を持つ京都という土地ならではの内容として興味深くはある。

 ま、もしも南朝が勝ってたら~、なんて言われたら、こちらだって
「もし徳川家康が江戸ではなく北条氏滅亡後の小田原で幕府を開いてたら、あの辺りが今頃日本の首都になってたね」
なーんてアホなことを言ってみたくもなるもんだがw

 京都の”怖さ”ということでは、以前「怖いこわい京都」の感想でも書いているが、あちらは魑魅魍魎、怨念や妄念、嫉妬から何からドロドロした澱の詰まった、まさに血塗られた魔都としての顔が主に描かれていた。その中で京都人が”よそさん”(非京都人)へ時折放つイケズの、得体の知れない恐ろしさについても触れている。
 今回本書を読んで、自分のような関東の人間……というか”よそさん”には到底理解不可能、理不尽極まりない京都人のイケズというものが、一体何に依って来るものなのか―少しだけわかったような気がする。  

 一章を読んでいて、なかんずく著者の中にある(外縁部への)差別意識を吐露する件で気付いたのは、洛中人による洛外観(優越感や蔑視感)は、実は京都特有のものではなく、日本否世界中―人間が社会を形成して一定の地域に定住する限り―至るところに、そしてこれからも存在し続けるものなんじゃないか、ということ。
 中央から周辺部への優越感、都会から田舎への理由のない蔑視感というものは、日本の一地方、一つの県内、そして世界各国、国家間ですらもあることだろう。具体例はここでは割愛するが、東京都民としてまだ10数年でしかない自分にもそういう意識が全くないかと訊かれたら、自信を持ってYesとは言えない気がするのだ。

 その意味で本書(の一章)は、単なる京都論に留まらず、文化論にまで敷衍できるとも考えられる、というのはホメ過ぎか。 

 昨日発売の「中央公論」 3月号では、新書大賞2016の特集記事が組まれており、著者井上氏のインタビュー他、年間ベスト20等も紹介されている。気になられた方はこちらを一度書店で手に取られてみては(こちらでも10位まで紹介されている)。

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